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なぜ人は勉強する必要があるのか?―学問の存在意義について

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誰しも一度は「なぜ勉強しなければならないのか?」と疑問に思ったことはあるでしょう。

この世には「学問」というのが存在します。

学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。
典:学問-Wikipedia

学問は様々な場所で使用されており、今でも多くの研究がなされています。わたしたちの日常は学問で埋め尽くされているのです。

かの有名な一万円札であり、慶應義塾の創設者として有名な福沢諭吉は著書『学問のすすめ』にて次のように言います。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

人は生まれながらにして平等です。他人を差別したり偏見を持ってはいけません。

また、誰しも自由に生きる権利があります。法律がある以上、何をしてもいいという訳ではありませんが、自分の意志を持ってどこでも自由に暮らすことが可能です。

ただ一方で、次のようにも言っています。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

世の中は同じ人間であり同じ場所に住んでいながら、賢い人と愚かな人、裕福な人と貧しい人で分かれています。

贅沢は言わずとも、誰しも豊かで余裕ある生活を送りたいと願うはずです。自ら進んで貧乏になりたい人なんていません。しかしなぜ、人によって格差が生まれてしまうのでしょうか?

学問はわたしたちの生活にどう影響を与えるか?学びの意義とは?

今回は福沢諭吉の『学問のすすめ』をもとに、学問の存在意義について考えていきます。

肉体労働では一生貧乏のまま

人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な『学問のすすめ』ですが、学んでいる人は裕福になり、そうでない人は貧乏になるとも言っています。

要するに、人間としては平等でも、学びがある人とそうでない人では生活に差が出てしまうということです。

さらに続きます。

すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

肉体労働は価値が低いということです。実際、工場のライン業や介護士は賃金が安いうえに労働環境も最悪という二重苦で有名です。

何より、そういった職はほとんど単調作業ですからロボット・AIで代用できます。さらに技術が進歩すれば仕事すら奪われるでしょう。肉体労働に未来はありません。貧困になるだけです。

一方、頭脳労働は価値が高いと言えます。医者や学者などの専門職は難しい勉強が必要ですが、高給です。

また、自営業orフリーランスは自分の頭で考え知識を活かすことが欠かせません。作家や画家であれば独自の発想も必要になります。ネットの普及により、ハードルは下がっているように感じますが、それでも誰でも簡単にできるとは一概に言えません。

だから、福沢は学問を自ら学び考える人は裕福になると言ったのでしょう。貧困にならないためには肉体労働から脱出するしかありません。

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学ばない者は他人を尊重しない

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繫がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。

「自由 」と 「わがまま」 の違いは何か?以下に続きます。

自由とわがままとの界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなす…

福沢の言う「わがまま」とは無責任な行為であり、他人を束縛することを指します。酒や女遊びによって他人を誘惑することがそうです。誘惑は教育の妨げになります。

自由には責任が伴います。他人の尊重なしに自分の自由はありません。

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学ばない者は視野が狭い

開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺に言う「井の底の蛙」にて、その議論とるに足らず。

井の中の蛙大海を知らず」ということわざがあるように、学ばない人は自分の周囲だけが全てだと思い込んでおり、視野が狭いです。

福沢は蘭学・英語を学び他国を渡った経験があります。彼はそこで日本にはない価値に出会い、衝撃を受けました。 その新たな価値を発見することが大事なのです。

攘夷派が外国人を追い払うように、学びのない人は新たな価値を認めず否定します。これでは、時代の変化に対応できませんし、短絡的に考えがちです。自分の周囲という狭い空間にとらわれていてはいけません。

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学ばない者は支配される

かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。

学ばない人は知識が少ないため、脅しに弱いです。そのため、詐欺に遭って騙されるなど悪人に支配されます。現代で言う、情報弱者(情弱)がそうでしょう。

学んで知識を付けることは嘘や詐欺から自分の身を守ることにも繋がります。“情報戦”という言葉があるように、持っている知識が多いほど世の中は有利です。

政治においてもそうです。「愚民の上に苛き政府あり」とあるように民衆が愚民であれば、政府はそれを水準とした厳しい政治を行います。愚民は政府に良いように利用され支配されるのです。

逆に民衆が良民であれば、政府は穏やかで寛大な政治を行います。良民が支配されることはありません。

法の苛きと寛(ゆる)やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。

法律が厳しくなるか緩くなるかは愚民か良民かによって変わります。政府と政治の質は人民によって作られるのです。

まとめ:自由を得るには学びが欠かせない

学ばない人に自由はありません。政府や悪人に搾取され続け、貧しい生活を送るだけです。

理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。

「命を棄てて」は言い過ぎだと思いますが、何事も恐れず学ぶ姿勢が大事です。そこで取得した新しい価値は人生をより良いものにするでしょう。

また、福沢はこうも言っています。

学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。

ただ難しい言葉を覚えたり、難解な古文・和歌・詩にいそしむだけが学問ではありません。

かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

わが国の『古事記』は暗誦すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と言うべし。

「まずは実用的なことを学べ」ということです。

古い書物を読んで暗誦できたとしても、現実に活かせなかったり、実生活が疎かになっては意味がありません。

文字の読み書きや四則演算といった基礎だけれど生活に役立つものも学問のうちです。自ら興味ある分野や生活に役立つような学問を探し、それにいそしみましょう。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

賢者は学び続け、愚者は永遠に学ばないのです。愚者にならないためには学び続けるしかありません。

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